正直、少し悔しかった。
Substackを始めてから、同じ時期に始めた人たちの投稿を見る機会が増えた。そこで時々、妙な光景に出会う。
深く考えて書かれた長文より、短い挨拶文の方が反応されている。
「今日から始めます」「よろしくお願いします」——それだけの投稿に、いいねやコメントが付く。一方で、時間をかけて書かれた考察記事は、静かなまま流れていく。
反応が欲しくて文章を書いているわけではない。そう言い切れたら格好良いのかもしれない。でも、全く気にならないと言えば嘘になる。
ただ今振り返ると、私が引っかかっていたのは「読者が増えないこと」そのものではなかった。本当に違和感があったのは、自分より内容が薄く見える投稿の方が反応されているように見えたことだった。
これは創作者なら、少し堪える。数字が伸びないこと以上に、自分の価値や能力を疑い始めるからだ。
でも観察しているうちに、少しだけ見え方が変わった。
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人は記事より先に、人に反応している
多分、私が見落としていたのはここだった。人は考察に反応する前に、まず人に反応している。
私たちは文章を読む時、内容だけを読んでいるわけではない。誰が書いたのか。どんな人なのか。今どんな感情なのか——そういうものを、無意識に読み取っている。
だから「最近ちょっと迷っています」という文章には反応が集まる。そこには情報ではなく、感情があるからだ。
読者は記事を読んでいるようで、実はその向こう側にいる人間を読んでいる。
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完成度が高い文章ほど入り込めない
ここで、少し皮肉なことに気付いた。完成度が高い文章ほど、読者は入り込みにくい。
論理が通っている。構成も綺麗だ。結論もある。すると読者は「なるほど」で終わる。
でも、少し揺れている文章。少し迷っている文章。答えが出ていない文章——そういうものには、読者が自分の感情を置く余白が生まれる。
Margin Archiveは、どちらかと言えば前者だった。観測記録として成立させようとする。構造を整える。感情を整理する。
でも多分、読者が求めているのは、綺麗に整理された結論だけではない。観測している人間そのものなのだと思う。
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読者とは何なのか
最近、私は創作について考えているつもりだった。でも実際には違った。考えていたのは、読者そのものだった。
なぜ人は反応するのか。なぜ共感するのか。なぜ立ち止まるのか。そして、なぜ深い考察より短い挨拶文の方が反応されることがあるのか。
これは案外、面白い観測対象だった。
私は今まで、AIを観測してきた。組織を観測してきた。医療現場を観測してきた。でも最近、最大の観測対象は「反応」そのものなのかもしれないと思っている。
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数字の向こう側
SNSやSubstackを見ていると、どうしても数字が目に入る。読者数。いいね数。コメント数。
でも最近、少しだけ思う。本当に面白いのは、数字そのものではなく、なぜその数字が動いたのかという現象の方だ。
なぜ挨拶文に人は集まるのか。なぜ共感が発生するのか。なぜ人は誰かを応援したくなるのか。
そういうものを観察し始めると、読者が増えないことそのものが、一つの観測対象へ変わる。
もしかすると、今ぶつかっている壁は、創作者なら避けられない場所なのかもしれない。そして私は、その壁を乗り越える方法よりも、なぜその壁が存在するのかを見ている。
多分、それがMargin Archiveという場所なのだと思う。
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この話に共感したか、違うと思ったかだけでも、よかったらコメントください。

まさにnoteを毎日書いていてとても感じていることです。自分の期待と、反応は必ずしも比例しないのです。
だから私は
いいねとフォロワー数を半年前から見ないことにしました。
小心者なので心がブレブレに揺れてしまうのです。本当は何を書きたかったのか分からなくなる…
たしかに!と思いました。
自分では「これは力作だ」と思った記事ほど、驚くほど静かなことがあります。良い記事かどうかはさておき、本人はかなり力を入れているのに全然響かないw
私もいろいろ見て回っていて、コメントが多い記事は、読者が自分のことを話せる「クエスチョン記事」になっていることが多いなぁと感じます。
いいねが多い記事は、世の中の8割くらいの人が「そうそう」と言いやすい内容だったりする。そして、この記事は、このどちらも満たしている記事ですよね?
あと、常連さんたちで盛り上がっている場所では、もう記事の内容だけではなく、人と人とのつながりで人が集まっているようにも見えます。
「人は記事より先に、人に反応している」
まさにそうなのだと思いました。