「つくる」という言葉に圧倒された。
最近、Substackを見ていると、プロフィールに
「noteもやっています。」
と書いている人をよく見かける。
最初は何も思わなかった。
でも、同じ言葉を何度も目にするうちに、
ふと自分に問いが浮かんだ。
私は、なぜnoteをやっていないのだろう。
答えは、すぐに出た。
私は未来を数字で計算していた。
まだ始めてもいないのに、
未来に答えを出していた。
「どうせ買われない。」
「売れたとしても、大した収益にはならない。」
だから、「やらない理由」はいくらでも見つかった。
そんなことをSubstackで何気なく書いたところ、ある人から印象に残るコメントをいただいた。
「買われる買われない、とか収益化以前の話しですね。ただのフォロワーでなく『真の読者をつくる』『文章でファンをつくる』ことですね😊まずそこですよね。本当の読者さんになると手間暇なんて関係ないですから。」
読み終えたあと、私はしばらく画面を見つめていた。
「真の読者をつくる。」
その言葉も印象に残った。
でも、本当に心を奪われたのは、その次の一文だった。
「文章でファンをつくる。」
私は、「文章でファンをつくる」という発想に圧倒された。
それまでの私にとって、
ファンは「つくる」ものではなかった。
ファンは増えるもの。
運が良ければ出会えるもの。
気に入ってもらえれば、自然と集まってくるもの。
そう思っていた。
その瞬間、私は恥ずかしくなった。
私は、「売れるか」を考えていた。
「売れても大した金額にはならないだろう。」
そんなことばかり考えていた。
「どうすれば真の読者をつくれるか。」
「どうすれば文章でファンをつくれるか。」
私は電卓を見ていた。
その人は読者を見ていた。
同じ「書く」という行為を見つめているのに、見えている世界はまるで違っていた。
そして私は思った。
自分には、まだそこまでの強さはない。
その言葉を書ける人は、
少なくとも私とは違う順番で物事を見ている人なのだと思った。
だからこそ、その一言に圧倒されたのだと思う。
そのとき、もう一つ気づいたことがあった。
私は、ファンとは呼び込むものだと思っていた。
SNSで知ってもらう。
記事を読んでもらう。
気に入れば、ファンになってくれる。
そんな受け身の発想だった。
でも、その人が使った動詞は違った。
つくる。
もちろん、無理につくるという意味ではない。
一つの記事を書く。
一つのコメントを返す。
読者との対話を続ける。
その積み重ねの先に、
「また読みたい。」
「この人を応援したい。」
という気持ちが生まれていく。
私は、その過程を「つくる」と呼ぶ人に、初めて出会った。
私は、まだ育ってもいない未来に、自分で値札を付けていた。
その値札だけを見て、
未来の可能性まで小さく見積もっていたのだ。
今回、一番学んだのは、
文章の書き方ではなかった。
物事を見る順番だった。
数字を見る前に、人を見る。
収益を見る前に、信頼を見る。
私には、まだその強さはない。
でも、
あの一言で、
進むべき道が、少し示されたような気がした。
今の私には、それだけで十分だった。


kumiさん
コメントありがとうございます。
収益を先に求めている時点(計算している)で駄目な事が私はよくわかりました。
元々収益化なんて期待してませんでしたが、記事のようにコメントをもらって痺れました。
神崎桃子さんにこの記事を捧げる。