画面の向こうから届いた、小さな贈り物
誕生日でもなく、
記念日でもない日に、
会ったこともない人からプレゼントをもらった。
それも、Substackの中で。
しかも、それは画像だった。
ただ、それだけで十分だった。
そして何より驚いたのは、
それが「贈り物として成立していた」という事実だった。
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最初にそれを見たとき、
正直、少し混乱した。
通知の意味が一瞬わからなかった。
次に来たのは、遅れてやってくる嬉しさだった。
じわじわと、
「あ、これってプレゼントなんだ」と理解していく感覚。
気づいたときには、
思っていた以上に心が動いていた。
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DMにはコメントが添えられていた。
> 良かったら使ってください。
その一文を読んだ瞬間、
不思議なくらい静かに、嬉しさが広がった。
派手な言葉でもない。
長い説明でもない。
ただ、「良かったら使ってください」という距離感が、
逆にいちばん丁寧に感じられた。
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SNSには「いいね」がある。
コメントがある。
シェアもある。
でも、
頼んでもいないのに、
誰かが時間を使って、
こちらのために何かを作ってくれるということは、
やはり特別だ。
ましてや、
一度も会ったことのない相手からならなおさらだった。
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私はしばらく、その画像を見つめていた。
そして同時に、
少しだけ戸惑っていた。
「どうしてここまでしてくれるのだろう」と。
何か見返りを返さなければいけないのではないか。
そんな思考が、
嬉しさの隣に並んでいた。
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Substackは不思議な場所だ。
派手な拡散よりも、
静かな読者とのつながりが生まれる。
誰がどこに住んでいるのかも知らない。
年齢も職業も知らない。
もしかしたら、
この先も一生会うことはないかもしれない。
それでも、
言葉を通じて、
ゆるやかに距離が縮まることがある。
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インターネットは冷たいと言われる。
匿名だから無責任だとも言われる。
たしかに、
そういう側面はある。
でも今回の出来事は、
その単純な説明から少し外れていた。
顔も知らない誰かが、
自分の時間を使い、
言葉ではなく、
ひとつの画像という形で気持ちを渡してきた。
そこには、
アルゴリズムでは説明できない温度があった。
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私はMargin Archiveを書いている。
誰かを励まそうとしているわけではない。
正解を提示したいわけでもない。
ただ、
日常の中でこぼれ落ちていく感情や違和感を、
観測記録として残しているだけだ。
だから時々、
「これは誰かに届いているのだろうか」と思うことがある。
画面の向こうに反応がなくても、
それでも書き続ける理由を探す日もある。
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でも今回の出来事は、
その問いを少しだけ変えた。
ちゃんと届くことはあるのだ、と。
しかもそれは、
数字や反応としてではなく、
「誰かが何かを作ってしまう」という形で返ってくることがある。
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そしてもう一度、あのDMを思い出す。
> 良かったら使ってください。
たぶんあの人にとっては、
それ以上でもそれ以下でもなかったのだと思う。
でもその一言は、
こちらにとっては十分すぎるほどの意味を持っていた。
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その出来事のあと、ひとつだけ強く思ったことがある。
それは、自分もまた誰かのところへ行って、
小さなプレゼントのようにコメントを残したいということだった。
画像は、コメントよりも少し手間のかかる贈り物だった。
だからこそ私は思った。
せめて自分には、
誰かの記事へ小さな言葉を届けることくらいならできるのではないか、と。
言葉は大げさでなくていい。
画像のように形がなくてもいい。
ただ、「ちゃんと見ていた」という事実だけを、
そっと置いていくようなもの。
あのDMに返すように、
別の誰かへ渡していくように。
誰かの記事に、
「読んでいます」と一言書くこと。
心に残った文章に、
「ここが好きでした」と伝えること。
そんな小さな言葉もまた、
誰かの日常を少しだけ照らす贈り物になるのかもしれない。
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Substackで、
会ったこともない人から画像のプレゼントをもらった。
誕生日でもなかった。
記念日でもなかった。
ただ、
静かに届いたその気持ちだけがそこにあった。
それだけの出来事なのに、
私はたぶん、
ずっと忘れないと思う。
人と人との距離は、
会った回数だけでは測れない。
顔も知らない誰かの優しさに、
思っている以上に深く救われることがある。
だからもう少しだけ、
この観測記録を書き続けてみようと思う。
画面の向こうには、
思っている以上に、
ちゃんと誰かがいるのだから。
そしてそれは、
思ったよりずっと静かに残る。


この記事はヨネケンさんに捧げる。
そして、そあのにも。
こちらまで温度が伝わった気がします。
お裾分け有難う御座います。