「正常です。」
その四文字を書けば、この場面は終わる。
それなのに、私はキーを押せなかった。
午前一時、五分前。
部屋は静まり返っている。
聞こえるのは、カーソルが静かに点滅する音だけだった。
画面の向こうでは、私の第一作から歩き続けてきた主人公、臨床検査技師の渋谷が立ち止まったままだ。
今日は、どうしても動いてくれない。
私は画面を閉じずに、その沈黙を見つめていた。
すると、一人の友人の姿が浮かんだ。
渋谷のモデルになった、実在する臨床検査技師だ。
「今日はここまで。」
そう言って席を立つ。
でも五分もしないうちに、またモニターの前へ戻っている。
「もう一回だけ見よう。」
その一言を、私は何度聞いただろう。
急ぐ理由はいくらでもある。
帰る理由もある。
それでも彼は立ち止まる。
誰かに褒められるためではない。
誰かに評価されるためでもない。
目の前にある一枚の検査データに、自分が納得できるまで向き合うためだ。
私は現場で、その背中を何度も見てきた。
だから思う。
医療に本当に必要なのは、答えを誰よりも早く出せる人ではない。
立ち止まれる人なのかもしれない。
医療は静かに変わっていく。
検査は増える。
人は減る。
それでも、
「正常」の四文字だけは、軽くなってはいけない。
私はAIを疑っているわけではない。
疑っているのは、人間がAIに何を任せようとしているのか、その境界だ。
現場には、論文では書ききれない問いがある。
エビデンスだけでは届かない違和感がある。
だから私は、小説を書くことにした。
物語は、一枚の検査データから始まる。
誰もが「正常」と判断した、その一枚。
ただ一人、渋谷だけが立ち止まる。
「何かがおかしい。」
その瞬間から、この物語は私の手を離れた。
もし、この小説が十年後も「ただの小説」で終わるのなら、それが一番いい。
そう願いながら、私はもう一度カーソルを見つめる。
午前一時、五分前。
私は、キーを押した。
画面の向こうで、
渋谷は、動き出した。
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ここから先は、小説の中で。



この記事は未来の私の読者に捧げる。
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