コメントはレタス味
先日のワールドカップ、日本戦の試合後は、少しの苦味が残った。
日本が負けたからか。
夜食に食べたレタスのせいか。
たぶん、その両方だった。
そのレタスを口にした瞬間、一人の農家の顔が浮かんだ。
Substackで知り合い、コメント欄で何度も言葉を交わした相手だった。
最初は、
「さんづけじゃなくて名前で呼んでよ」
そんな一言から始まった。
それだけなのに、不思議と距離が縮まった気がした。
数日後。
仕事のことを聞いた。
「農家って忙しくないの?」
そう尋ねると、
「ハウスが半分潰れたから、そんなに忙しくない。」
と返ってきた。
重い出来事のはずなのに、その返事には暗さがなかった。
翌日後には、
「捨てるもの作るのは得意なんだ〜。」
というコメントも届いた。
少し前には、丹精込めて育てたレタスの写真を投稿していた。
「良いものを作っても、売れ残れば捨てるもの。石ころコロコロ」
その言葉だけが、不思議と頭に残っていた。
さらに数日後。
その人は、自分自身に向かって書いていた。
「昨日の自分へ。さいてーだなおまえ。」
私は思わずコメントを書いた。
「そんなこと言うじゃありません。凄く頑張ったよ。」
すると返ってきた。
「誰も言わないから、自分でゆったげた。」
私は、
「自分に厳しい…」
と返した。
すると、
「どっちかっていえば優しいだろー?」
と返ってきた。
私は少し考えて、
「わかんないや。」
そう返した。
今でも、あの答えは分からない。
でも、分からないままでもいいと思っている。
そんなやり取りを続けるうちに、その人は、ときどき私の記事へ、
「あそぼー」
とだけコメントを残すようになった。
最初は何気ない四文字だった。
けれど、気づけば私は、その四文字を待っていた。
新しい記事を書けば、
今日は「あそぼー」が来るだろうか。
そんなことを考えている自分に気づいて、少し笑ってしまった。
大人になると、立場や建前や、積み重ねてきたこだわりに縛られる。
「こんなことを言ったら迷惑かな。」
「失礼な人だと思われるかな。」
そんなことばかり考えて、純粋な気持ちを、そのまま言葉にすることが難しくなる。
だから、
「あそぼー」
という四文字が、妙に心に残った。
そんな姿を見ているうちに、私もコメントくらいは、肩の力を抜いて、素顔のまま書いてみようと思うようになった。
そんなある日。
その人は、私たちが一緒に遊んでいるアバターのイラストをプレゼントしてくれた。
見た瞬間、思わず笑ってしまった。
私は普段、人からもらったものを誰かに見せたいと思うことは、ほとんどない。
それなのに、そのイラストだけは違った。
正直に言って、自慢したかった。
「見てほしい。」
そんな気持ちが、自然と湧いてきた。
そして迎えた、日本戦。
レタスをひと口かじる。
シャキッという音と一緒に、その人の言葉が浮かんだ。
暑い畑で汗を流し、
天候に振り回され、
売れなければ捨てるしかないレタスを育てる日々。
気づけば、
「このレタスは、ちゃんとウチの食卓に届いたんだな。」
そんなことを考えていた。
コメント欄は、作品の付録じゃない。
スーパーでレタスを見るたびに、
ほんの少しだけ立ち止まるようになった。
味は変わっていない。
変わったのは、私のほうだった。
だから、あの日の苦味は、日本の敗戦だけじゃなかった。



感謝を込めてるんだよ。
もう、読んでくれたの?!
この記事はSoano Yuiさんに捧げる。