仕事が終わったあと。
若い医師の先生と、顕微鏡を覗いていた。
血液像と骨髄像の形態指導。
顕微鏡の前に座ると、立場も肩書きも関係なくなる。
そこにある細胞を、どう読むか。
それだけになる。
「この細胞、どう見えますか?」
若い先生が覗く。
少し考える。
そして、また覗く。
形態を読むというのは、知識だけではなかなか難しい。
細胞の名前を覚えていても、実際の標本を前にすると迷う。
だから、最初から難しい細胞を当てにいかない。
まず見るのは、正常細胞との差異だ。
正常と比べて、何が違うのか。
核なのか。
細胞質なのか。
顆粒なのか。
染色性なのか。
大きさなのか。
「この細胞は何だろう」と考える前に、
「周りの細胞と、どこが違うんだろう」
と考えてみる。
違いが見つかれば、そこから鑑別点を絞っていける。
そして、もう一つ。
わからない細胞を見つけると、つい倍率を上げたくなる。
もっと大きくすれば、何かわかる気がする。
けれど、私はむしろ倍率を下げる。
一歩、引いてみる。
わからない細胞だけを見るのではない。
その細胞の周りを見る。
周囲の正常細胞と比べて、色調がどう違うのか。
細胞質の染まり方が、どこから変わっているのか。
その変化を、低倍率で確実に捉える。
大きくしてしまうと、一つの細胞だけが世界になる。
低倍率に戻すと、その細胞が置かれている景色が見えてくる。
その景色の中に、鑑別の手がかりがある。
形態を見るというのは、細胞を大きくすることではない。
必要なときに、一歩引いて見ることでもある。
そんな話をしながら、また二人で顕微鏡を覗いていた。
そのとき、ふと思い出した。
以前、今は准教授になっている先生とも、同じように顕微鏡を覗いたことがある。
当時、その先生も形態を見ることに苦労していた。
一緒に標本を見て、
「これは何だろう」
と考える。
周りの細胞と比べる。
倍率を変える。
また戻す。
そうやって、一つずつ鑑別点を探していった。
あのとき、顕微鏡の向こう側にいた先生が、今は准教授になっている。
そして今、目の前には、形態を学んでいる若い医師がいる。
時間は流れた。
立場も変わった。
けれど、顕微鏡の前でやっていることは、あまり変わらない。
わからない細胞を前にして、
正常との差を探す。
一度、引いて周囲を見る。
色調の変化を捉える。
そして、鑑別点を一つずつ明らかにしていく。
形態を見るということは、
「細胞の名前を当てること」ではないのだと思う。
違いを見つける。
その違いを言葉にする。
そして、その違いから可能性を一つずつ絞っていく。
顕微鏡の視野は小さい。
けれど、その小さな視野の中に、たくさんの情報がある。
だから、ときには大きく見る。
そして、ときには一歩引く。
それは、形態を見るときだけではないのかもしれない。
仕事が終わった静かな検査室で、
今日も二人で同じ標本を覗いていた。
かつて自分も、誰かと一緒に覗いた顕微鏡を。
今度は、別の誰かと覗いている。
いつか自分が、この場所からいなくなっても。
今日、一緒に覗いたこの視野が、
いつか誰かの目に残っていく。
その先で、ひとつでも早く診断にたどり着けるのなら、
私はそれでいい。
そんなことを考えながら、
もう一度、顕微鏡の視野に目を戻した。




研究職って聞くだけで「すごい!」キュリー夫人も野口英世も好きなのに、科学への探究心はどの段階でもなかったわ。
わたしが自然を観察しているときとすごく似ていて、妙な話ですが共感します。
この植物が自生している…条件ではなく、全体の雰囲気を肌で読み取って、身体が記憶しているものを呼び起こす感覚。
ひとつの草花を見て森や地域を観るというか…
そんなことを勝手ながら思いました😊🌿