先日、PTAの話を聞いた。
「プリントを配っても読まれない。メールを送っても確認されない。結局、説明会で音読しないと伝わらない。」
最初は少し大げさな話だと思った。でも後から、妙に腑に落ちてしまった。
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ちょうどその頃、「読書は貴族の嗜みになる」という一文を読んだ。
冗談めかした表現だと思いながら読み進めるうちに、どこかで笑えなくなっていた。
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文章というのは、思っている以上に負荷が高い。
動画のように自動で流れてこない。音声のように受動的に入ってこない。自分で視線を動かし、意味を接続し、行間を補いながら、頭の中で再構築しなければならない。「読む」という行為は、驚くほど能動的だ。
だから今、短文、ショート動画、字幕、切り抜き——そういう形式に情報の主導権が移っていく。これは人類の劣化ではない。省エネルギーな情報形式へ、社会全体が最適化されているだけだ。
そう考えると、少し楽になった。
「ああ、だからMargin Archiveの読者が増えないんだな」と。
https://marginarchive.hatenablog.com/
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負け惜しみが半分あることは認める。
でも残り半分は、わりと本気だ。
このブログの記事は、読む側にかなりの委ねがある。結論を急がない。感情を煽らない。「要するにこうです」を、なるべく避けている。現代SNSの文法からすると、かなり不親切な設計だ。
でも、たぶん私にはこの書き方しかできない。
検査室で顕微鏡を覗き、血液像を見て、数字を追っていると、人間の現実というのはそんなに単純な「答え」の形をしていないと、どうしても感じてしまうからだ。だから記事の中にも余白が残る。説明し切らない部分。読者へ預ける部分。少し考えないと意味が定着しない部分。
今、その余白に耐えられる人が、減っているのかもしれない。
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PTAでプリントを音読しないと伝わらない、という話は、保護者批判ではない。
社会全体の「読解体力」の変化だと思う。
読書にはかつて、教養という名前がついていた。今はそれに加えて、集中力、時間、精神的余裕、そして「自分で意味を組み立てる力」が必要になっている。つまり、読書はコストの高い行為になった。「貴族の嗜み」という言葉の、妙な現実感はそこにある。
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そこから少し皮肉っぽく考えてしまった。
もし本当に、長文を最後まで読む人間が希少化していくなら。「読む側」そのものが、一種の知的余裕階級になっていくなら。書く側にも、それに似た責任が発生するのではないか、と。
昔の貴族には「ノブレス・オブリージュ」という言葉があった。
高い地位には、相応の責任が伴う、
という意味だ。
最近、冗談半分で「ノブリス・オブ・リーディング」という言葉を考えている。
読む者の責任。
あるいは、最後まで読む側の義務。
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SNSでは速さが価値になる。
短さが価値になる。
刺激が価値になる。
それでも、結論の遅い文章を最後まで開いてくれる人がいる。
私は、その人たちに向けて書いている。読者が増えない理由としては致命的だと思う。でも今のところ、それでいい。
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あなたが最近見たり聞いたりしたことで「少しおかしいけど誰も気にしていないこと」や「小さな考え事」があれば、コメント欄から教えてください。Margin Archiveでは、そういうものを観察記録として扱っています。

社会全体の「読解体力」の変化という表現が、スッと入ってきて、納得しました。
仕事でも伝え方とか本当に難しくて、そもそも伝え方が上手でもないので、リアル荒業です笑
読むの好きです。理解できない時や本質ズレちゃう時もありますけど笑、それも自分なんだなと思いながら次を読みます∧⑅∧
ゲンズさん
古い記事にコメントいただけて光栄です。
ブログはもう辞めてしまったので、
この記事は不適切かも知れません。
🦆